Subject:
詩篇115篇「金曜日の聖書研究」
From:
"+ShinyaKanno" <shinya@kanno.com>
Date:
2005/12/30 12:35
To:
"saiwainet" <saiwainet@yahoogroups.jp>

+ちゃんくんです。

115篇の1節はちょっとまちがった言い方で引用されてしまうことが多い。
引用するときに、言うことはまちがってはいない。
しかし、115篇の位置づけの中で言いたいことではないだろう。

それで、今週は115篇の1節について他の箇所を見て考えた。
私たち側にはさばきがなされる理由はない。
神様の御名が汚されているということが第一の理由である。

このことはエゼキエル書、また、エレミヤ書をみればわかる。
神様の御名に対して逆らうことについてラブシャケのストーリーを見て考えた。
ラブシャケはおまえらの神様はどこにいるのと攻撃してくる。

サタンも神様はほんとにこのことを言ったのと言って、責めてくる。
4-8節のことは国々の偶像について言っているように見える。
しかし、エジプトにいたイスラエルは神様のことをこのようなものにしてしまった。

キリストの人生を見ていればわかるよに、病がいやされることと、信じることは並行している。
信じるときに、その病気はいやされる。その人の信仰によっていやされる。

最初は1節と17節が並行していると見ていた。
しかし、17節と並行しているのは4-8節であることがわかった。

主にハレルヤと歌うときに、主に信頼していることがあらわされる。
ヒゼキヤはラブシャケと主に信頼するかどうかを戦っている。

主に信頼することはアーメンという一言に置き換えることができる。
主を賛美すると言いながら、神様の命令を守らないということはありえない。

二つはペアーになっている。離して考えることはできない。
1節はシェークスピアの劇の中では勝利を得たときに歌われている。

しかし、勝利を得たときの歌ではなく、負けているときの歌である。

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+審也@カンノファミリー
 mailto:shinya@kanno.com
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