+ちゃんくんです。
七十人訳の人たちは116篇は二つに分かれていて、114篇と115篇が一つの詩篇であるという。
116篇の10節はコリント人への手紙第二4章13節に引用されている。
第二コリントのところは七十人訳である。七十人訳の方をパウロは引用した。
艱難の中で勇気を持ちなさいと言われている中で、116篇が引用されている。
七十人訳の人たちが116篇を二つに分けるときに1-9節と10-19節の二つに分ける。
10節は私は信じた。なぜなら、私は大いに悩んだと言ったときもというようになっている。
詩篇116篇の10節も、11節もかぎかっこのつくような文章ではない。
10節の悩んだときと11節のあわててということばは並行している。
七十人訳の人たちは116篇は私は信じたというところから始まると考える。
パウロは七十人訳の言い方を引用するときに、「私は信じた。それゆえに語った」というところしか引用しない。
この世の人から見ればパウロの教えは恥のように見える。
しかし、パウロはキリストの死と復活は栄光であるということをコリントの教会に教える。
マケドニヤの教会は苦しみの中にあっても、主の良くして下さったことに対して何を返すかを考えている。
あなたがたは復活することはないということが偽りである。
誓いを果たすということは勇気を失っていないということである。
簡単なときにはどんなときにも誓いを果たしますとは言わない。
死にそうな状態にあるときにも誓ったことを果たすということは勇気が必要である。
今日は後半の10-19節のところをじっくり見て、考えた。
キリストはいと高き神様であられたのに、私たちのために貧しくなられたということが恵みである。
それは富んでいたのに貧しくなったことによって、貧しいものが富むものとなるためであった。
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+審也@カンノファミリー
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