+ちゃんくんです。
出エジプトのハレルといっしょに見ました。
詩篇118篇の15節と16節に主の右の手という言い方が三回もくり返されている。
この言い方を見たときに出エジプト記15章6節を一番最初に思い出した。
詩篇118篇の15節、16節のクロスリファレンスにもちゃんと出エジプト記15章6節と出ている。
出エジプト記15章2節に詩篇118篇の14節とまったく同じ言い方がある。
「主は私の力であり、ほめ歌である。主は、私の救いとなられた。」
神様の奇しいみわざというときに、よく出エジプトのストーリーを思い出す。
神様がイスラエルをエジプトから連れ出されたとき、彼らは前に海があるのを見た。
そのとき、彼らはもう死ぬということを思っていた。
しかし、神様は海を二つにわけて、彼らにかわいた地を通らせた。
このことはバプテスマのことだということも言えるが、
死ぬ状態にあったのに、生かされたということだということも言えるだろう。(詩篇118篇17節)
苦しみの中から主に叫ぶと、主は答えて下さったというのは出エジプトの始まりである。
神様に呼ばないかぎりは神様は助けてはくださらない。
しかし、神様は呼ばれなくてもみわざを行うことはできる。
イスラエルはすごく小さなものたちで、もう捨てられたかのような国であった。
神様はそのような国を選んで、ご自分の宝とされた。
そのことを忘れて、彼らはキリストを十字架につけた。
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+審也@カンノファミリー
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