Subject:
イザヤ書「第二回の講義のまとめ」
From:
+ShinyaKanno
Date:
2006/01/21 12:45
To:
saiwainet

+ちゃんくんです。

イザヤ書第二回の講義をまとめました。

イザヤの前の時代はヨナが預言者であった。
ヨナの宣言により、ニネベは悔い改めるが、あとの時代になって、神から離れた。
ニネベは悔い改めたときから、かなり力を増していた。

イザヤが預言者であった時代にミカも預言者であった。
ミカ書を見ながら、イザヤがどのようなことを預言しているのかについて考える
ことができる。
士師記の時代にイスラエルは神様から離れ、偶像礼拝をしていた。

サムエルがイスラエルを治めていた時代には他の国へ捕囚されるようなことはな
かった。
しかし、捕囚されてもよいような罪を犯していた。
このときには神様がかわりに捕囚として、他の国へ行ってくださった。

イスラエルは契約の箱が魔術の箱であるかのように考え、戦いの時に持って行った。
契約の箱は神様との契約をあらわすものであって、その中には十戒の板と、マ
ナ、アロンのさばきの杖がはいっている。
イスラエルはその戦いの中で負け、ペリシテに契約の箱を持って行かれる。

イザヤは神の宮の中にあるすべてのもの、またイスラエルにあるものをすべてバ
ビロンに持って行くということをヒゼキヤの時代に預言する。
ヒゼキヤはバビロンの人たちがイスラエルに来たときに、すべて自分が持ってい
る富を見せた。
そのときにイザヤが来てしかって、バビロンに捕囚として連れて行かれることに
ついて預言する。

■イザヤ書1章10-15節

ユダの人々にソドムとゴモラのような国になっていることを言う。
ソドムとゴモラのようなさばきを受ける罪を犯していることをあらわしている。
神様はそこでユダの人々に私はあなたがたの礼拝を受け入れないということを言う。

イスラエルのどの時代においても、いけにえをささげることは大切である。
神様はイスラエルが喜んでいけにえをささげるかどうかを求めておられる。
ダビデは詩篇51篇の中で、私は砕かれたたましい、砕かれた悔いた心をささげ
ますということを告白する。

□レビ記26章28節から33節

こののろいの契約の中で、私がさばきを行っても、悔い改めないなら、さばきは
もっと大きくなるということがある。
さばきを行うのはイスラエルが罪を悔い改めるようにするためである。

ここの中で、私はイスラエルの儀式礼拝を喜ばないということが言われている。
悔い改めのない礼拝を神様は喜んでくださらない。
失望して死ねということを神様はイスラエルに言っているのではない。

神様は私たちに罪を赦すという約束を与えて下さった。
ドーシーの構造を見ればわかるように、悔い改めの訴えは一番中心となっている。

■イザヤ書1章16-20節

水で身をきよめるということはバプテスマのことをあらわしている。
神様はここで儀式を守りなさいということを言っているのではない。
その行っていることの意味をわかりなさいということをいっている。

どの社会においても、どの時代においても悪者は弱いものをいじめている。
神様はイスラエルのリーダーたちにみなしご、やもめを守りなさいということを
命じられる。
イザヤの時代にあっても、今の時代にあっても、悪者の行いについてはかわらない。

このような行いを取り扱う人はだれもいない。
悪者は警察や、裁判官にわいろを払って、その罪を取り扱わないようにする。
悪い警察や、裁判官は自分がお金持ちになるので、その罪を取り扱わないで終
わってしまう。

純粋な警察官は悪い人たちをさばこうとしたという歴史が日本の中にあった。
もし、罪を悔い改めて、みことばに立ち返るなら、その罪は雪よりも白くなる。
罪を悔い改めて、みことばに立ち返るなら、申命記28章に書かれている祝福の
ことはすべて与えられる。

しかし、自分の罪を悔い改めないで、みことばから離れるのなら、剣にのまれる。

■イザヤ書1章21-23節

イザヤはユダの人々に対して、なぜ、正義から離れ、公正から離れるのかという
ことを訴える。
偶像礼拝の罪はローマ人への手紙1章のような悪い国が出てくる。

■イザヤ書1章24-27節

私たちがもし罪を悔い改めるのなら、神様は真実な方であられるので、私たちの
罪を赦して下さる。
万軍の神、主は敵に対して復讐を求められる方である。
親が子供をさばくのは子供を殺すためではなく、かえって愛しているからさばく。

□ミカ書7章9節

これは第一ヨハネ1章の真実の話の背景になっている。
悔い改めるものの訴えを神様は聞いて、受け入れてくださる。
神様は正しい方であられるので、私たちの罪を赦して下さる。

罪人は私たちにはもうあわれみはないということを心配する。
私たちには神様はあわれんでくださるかどうかなんか心配する必要はない。
私たちの訴えに対して、神様は決して耳を閉じるようなことはない。

■イザヤ書1章28-31節

ここで、悔い改めないものたちに対するさばきの宣言がされている。
神様のことばを聞かないものはソドムとゴモラのようなさばきを受けることになる。

ソドムとゴモラはさばかれる前は園のように非常に美しかった。
しかし、悔い改めることをしなかったので、そのような園は砂漠に変えられた。

■イザヤ書2章2-5節

エズラ、ネヘミヤ、エステルの時代にイスラエルの人々はバビロンから帰ってくる。
イザヤ書の中で預言されているメサイアであるクロスはイスラエルの王様となっ
ている。

クロスはお金を出して、すべてバビロンに持って行かれたものを取り返す。
ここで、終わりの日ということばを使うときに、イスラエルがバビロンから帰っ
てきたあとにまた罪を犯してさばかれるときのことである。

バビロンに捕囚として連れて行かれるさばきは最終的なさばきではない。
ペルシャの王様はエステル、またダニエルに主のみことばを学ぼうとして来ている。
イスラエルはすべての帝国よりも高くなり、すべてのものはそこに入っていく。

イザヤ書2章2節から4節とミカ書4章1-3節は全く同じ言い方である。
ダニエル書の2章の中で、ネブカダネザルが見る幻はこのことをあらわしている。

頭は金で、胸は銀で、お腹は銅で、すねは鉄で、足は鉄と粘土がまざったものに
天から石がおっこちてきてそれをこわす。
その石はだんだんふくらんでいって、世界をいっぱいにするというのがネブカダ
ネザルが見た幻である。

□ダニエル書7章

ここでダニエルは四つの顔を持つ怪物についての幻を見た。

この箇所はよく千年王国五節の人たちによって引用される。
しかし、キリストの再臨については何も書かれていない。

反対にキリストは雲にのって、天におられる年を経た方の所に行くということを
いっている。
この預言は使徒行伝の1章で成就されている。
キリストは復活して弟子たちの見ているところで、昇天された。

天におていも、地においてもいっさいの権威はキリストに与えられている。
使徒行伝の1章の時点ではまだ石は小さい。

全世界はあるときに、きゅうにかわるというようなことではない。
キリストは十字架の道を歩んで、福音を宣べ伝え、だんだんと救われていく。
罪を犯すイスラエルの中に、神様を信じる残りのものがいる。

罪の中にあるイスラエルを見るときに、がっかりして、失望してしまう人がいる。
全世界はキリストを信じるものと変えられるということが約束されている。

日本はいつかキリストを信じるものに変えられるというはげましのことばが私た
ちには与えられている。
だから、私たちはいつも神様のみことばを歩むことができる。
ヘブル人への手紙12章の1-2節にこのようなはげましのことばがある。

キリストが歩まれた道を私たちは自分たちの十字架を負って、歩んで行く。
ヘブル人への手紙1章1-2節
マタイによる福音書23章でキリストは神殿から出て、私はこの神殿を荒れ果て
させるということをいう。

キリストは繰り返し、繰り返しこの世代をさばくということを強調される。
神様を信じるものはみなキリストの最後の説教の中で語られていることの成就を
待ち望んでいる。
すべての国々をキリストの弟子とするということが私たちの働きである。

■イザヤ書2章6-9節

ここでのポイントは神様はイスラエルを捨てられた。
なぜなら、イスラエルは他の国々の偶像を礼拝しているからである。
社会的には非常にイスラエルは祝福されている。

■イザヤ書2章10-22節

高慢なイスラエルの男たちは神様によってさばかれ、滅ぼされる。
詩篇1篇の中で強い木は正しいものをあらわしている。
しかし、ここでは高慢な男たちのことを強い木によってあらわしている。

神様がさばきのために立ち上がるときに、高慢なものたちはみな岩の中にはいる。
このような言い方は黙示録の中にある。

■イザヤ書3章1-15節

リーダーたちはイスラエルを悪く導いたので、神様はイスラエルをさばく。
神様がイスラエルをさばかれたときに、大変な状態にあるので、だれもリーダー
になりたくない。

■イザヤ書3書16-17節

今までは高ぶった男たちの話をしていたが、ここでは高ぶった女たちの話をして
いる。
男であれ、女であれ、高ぶっているものは恥を見る。

■イザヤ書3章18-4章1節

ここでも、高慢な女性たちに対するさばきについて話されている。
ペテロは高ぶった女たちは飾り物をしないで、へりくだって歩みなさいというこ
とをいう。

女性たちは自分たちの飾り物で相手と競争をする。
女性たちは洋服、飾り物で、自分たちの高慢をあらわしている。

■イザヤ書4章2-6節

ここで、将来のエルサレムの祝福についてまた、書かれている。
モーセが預言したように、イスラエルはさばかれたあとに、神様に戻る日が来る。

エズラの日にこのことは一時的に成就された。
しかし、このことは最終的な成就ではない。
キリストは枝という言い方でいろいろな預言書の中で預言されている。

ガラテヤ人への手紙4章26節
ヘブル人への手紙12章22節

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