Subject: 詩篇120篇「緑本」いのちのことば社 |
From: +ShinyaKanno |
Date: 2006/02/03 10:23 |
To: saiwainet |
+ちゃんくんです。
詩篇120篇
■都上りの歌
詩篇120篇から134篇までは15篇ある。
この15篇はイスラエルの男子の庭から婦人の庭までの階段が15段あっ
て、そこを上るときに歌われたということが言われる。
バビロン捕囚からの帰国のときに歌われたものであるということも言われる。
しかし、これらの詩篇はバビロンの捕囚からの帰国よりも後に書かれたと
いうことも言われる。
それで、あるものはシオンでの礼拝、パレスチナでの生活のときに歌われた
ものだと考える。
120篇が都上りの歌という一連の詩篇の中にいれらたかはわからない。
■構造
A:聞かれた祈りの証言(1節)
過去の体験を証言している。
なぜなら、主は私に答えられたというように、過去形になっているからだ。
B:敵からの救出の祈願(2節、3節、4節)
彼が与え、彼が加えるという、彼ということばは神様をあらわしている。
4節では欺きの舌に対する、復讐について言っている。
欺きの舌も、鋭い矢、熱い炭火のようであるから、復讐も同じようになる。
C:環境についての嘆き(5節、6節、7節)
5節のああと訳されていることばはわざわいなるかなということばである。
ケダルはイシュマエルの子孫で、そこに人が住むということはあまり考え
られない。
詩人は必ずしもメシェクに寄留していたわけでもない。
「私」と訳されていることばはヘブル語では「私のたましい」ということ
ばである。
平和を話すとは、自分から声をかけて仲良くしようと努力することである。
私は平和と真実を語るという訳し方もある。
平和ということばは偽り、欺き、戦いということばと対比されていること
は明らかである。
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+審也@カンノファミリー
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