Subject: 詩篇121篇「水曜日の聖書研究」 |
From: +ShinyaKanno |
Date: 2006/02/08 11:02 |
To: saiwainet |
+ちゃんくんです。
■121篇の1節の山は何の山をあらわしているのか。
エルサレムの回りを囲んでいる山のことをさしているということを言う人がいる。
エルサレムから旅行に行くときの山のことを言っているという人もいる。
普通に読んだらシオンの話をしているということがわかるはずである。
エルサレムから旅行に行くということはまちがっているだろう。
この時代の人たちは普通に旅行に行くようなことはしない。
山に向かって目をあげますの答えが2節にある。
ここで、どこから来るのかなーという質問をしているのではない。
強調するためにどこから来るのかということを言っている。
助けがどこから来るかということを知っていて、質問している。
121篇の山ということばはヘブル語では複数形になっている。
なので、学者たちは山々ってどの山のことをあらわしているのかということを
研究している。
■都上りとは何をあらわしているのか
捕囚の民がバビロンからイスラエルに上っていくときの歌なのか
神殿の中に十五段の階段があるので、それを上るときに歌った。
この考え方はちょっと違うだろう。
バビロンから上るときに歌ったものだと考える人は、ダビデの歌ではないだろ
うと言う。
詩篇や、他のものはほとんどエズラが編集したと考えればいいだろう。
ダビデが歌ったものをエズラが編集していると考えることもできる。
バビロンから上るというような事件はダビデの人生の中にもあったのだろう。
バビロンから上るというような事件は一回しかなかったわけではない。
モーセの時代にもエジプトから連れ出されるという事件があった。
アブラハムもイサクも、出エジプトのような事件をしている。
121篇の8節に行くにも帰るにもということがあるので、みんな研究する人
はこまってしまう。
■構造分析
1節と2節は質問と答えということになる。
3節と4節で、二回も守る方はまどろむこともないということを言う。
助けは山から来るということを知っているので、目を山に向ける。
5節の後半と6節が並行していることは読めばすぐにわかる。
6回の守るということばはヘブル語でも全部同じことばである。
昼も日が、夜も月がということは黙示録7章16節で成就されている。
月に打たれるということがある。
マタイによる福音書17章15節
ここでてんかんと訳されていることばはもともとのギリシャ語では月とい
うことばである。
昼も、夜も守って下さる神様であるということには間違いはない。
このテーマはすべてのわざわいから守るということと並行している。
■行くにも帰るにも
行くにも帰るにもということはソロモンが言う。
第一列王記3章7節
私は若くて、出入りするすべを知りません。
3章7節のクロスリファレンスには詩篇121篇が出ていない。
モーセは申命記32章で私はもう出入りすることができませんということを言う。
民数記10章35節から36節で、「主よ。立ち上がってください。」と「主
よ。お帰りください」ということが言われている。
ヨハネによる福音書10章9節でも、出入りするということばが使われている。
第二サムエル記5章2節でもヘブル語では出入りするということばがある。
このようにいろいろな箇所を見てくると5-8節は羊飼いの話をしていること
がわかる。
5-8節は詩篇23篇のことを言っているということになる。
■眠らない
眠ることはないということは黙示録22章5節で成就されている。
出エジプト記12章42節で、イスラエルを救うために、寝ずの番をされたと
いうことが言われている。
エリヤはバアルの神様を攻撃するときに、眠ってるんじゃないのと攻撃する。
新約聖書では眠らないことによって、悪魔からの誘惑から守られるということ
が言われている。
羊飼いたちは寝ずの番をして、羊を守る。(ルカによる福音書2章8節)
エズラ書8章29節で、寝ずの番をして守りなさいということを言う。
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