Subject:
詩篇121篇 「行くにも帰るにも」(将)
From:
Shou Itou
Date:
2006/02/08 22:39
To:
"+saiwai.net" <saiwainet@yahoogroups.jp>

こんにちは、+イトウショウです。

詩篇121篇の「行くにも帰るにも(=出るにも入るにも)」ということをみました。

●民数記27:17
彼が、彼らに先立って出て行き、彼らに先立ってはいり、また彼らを連れ出し、
彼らをはいらせるようにしてください。主の会衆を、買う者のいない羊のように
しないでください。」

モーセは、自分が約束の地に入ることが出来なくなったということを主に告げら
れ、約束の地での民の新しい指導者を与えて下さるように主に訴えている。

民を導く者は民を守る責務も負う。それはイスラエルの歴史において、王の責任
ということになり、現代では国家がしなければならない義務である。リーダーが
民を守るということは、象徴的に神が人類を守って下さるということである。
リーダーは常に下にいる者に仕え、常に心を配る。そのように主も行って下さっ
ている。

この箇所はメサイアにつながる箇所である。主はヨシュアを新しいリーダーとし
て与えるということを約束されたが、そのヨシュアという名前は「イエス」のヘ
ブル語名なのである。羊を買うということもメサイアにつながる。

●申命記28:6
あなたは、はいるときも祝福され、出て行くときにも祝福される。

申命記28章は有名な箇所で、祝福と呪いについてである。祝福についての箇所は
呪いについての箇所よりも短いが、祝福の箇所は内容が凝縮されているのである。

この箇所の「出るとき、入るとき」というのは文字どおりに捉えることもできる
し、また前の5節と一緒に考えて、生活のすべてにおいて祝福されるということ
であるということも考えられる。

イスラエルが祝福されるのは主の命令を守るからである。その祝福とは詩篇121
篇に書かれているように、主が守ってくださることであるということも言えよ
う。すべてを支配しておられる主が守っていて下さるということが、私たちに
とって最大の祝福であり、確信である。

申命記28:19はこの箇所と対比される呪いの箇所である。主の命令を守らない者
は、主による保護を失い、生活の至るところで呪いをうけるのである。

●申命記31;2
言った。私は、きょう、百二十歳である。もう出入りができない。主は私に、
「あなたは、このヨルダンを渡ることができない。」と言われた。

イスラエルは主に対して罪を犯し続けたために、40年間荒野をさまようことにな
り、エジプトから出た第一世代は2人を除いて死んでしまった。モーセはたった1
回犯した罪のために約束の地にはいることができなくなってしまった。彼はイス
ラエルのリーダーという責任が問われる職務に就いていたため、そのような罪で
も責任をとらなければなならなかったのである。

そのようにしてモーセを含めたほぼすべての第一世代は約束の地にはいることが
できなかった訳であるが、そのようなイスラエルであっても主は守っていて下
さった。主は食べ物を毎日与え、戦いの時には勝利を与えて下さった。

●ヨハネ福音書10:9
わたしは門です。だれでも、わたしを通ってはいるなら、救われます。また安ら
かに出入りし、牧草を見つけます。

主イエス・キリストが文字どおりに門であるわけではなく、これは中あるものを
守る、という意味での門ということであると考えられる。

主イエス・キリストは門であり、また羊飼いでもあられる。羊飼いとは、羊のこ
とを考え、外敵から守り、羊のためなら命までも捨てる。そのように主イエス・
キリストも、さまよっていた人間たちを集めて養い、そのために命までも捨てら
れたのであった。

-- CREC Mitaka Evangelical Church - MFK Shou Itou - Christian Homeschooler in Japan mailto:shou_itou@parkcity.ne.jp