Subject: 詩篇121篇「金曜日の聖書研究」 |
From: +ShinyaKanno |
Date: 2006/02/10 10:01 |
To: saiwainet |
+ちゃんくんです。 山に向かって目をあげるというときに、どっかに旅行にいって、山はすごいと見 ているわけではない。 この当時のイスラエル人はみんなそのような場所に住んでいる。 天地を造られた主というのは、木で造られた神様ではないということをあらわし ている。 1節の山と訳されているのは、複数形で、山々である。 目を上げるということは123篇も同じ出だしである。 山がどこの山のことをあらわしているのかといって、それに対していろいろなこ とを言う人がいる。 しかし、そこまで大変なことは言っていない。 121篇には繰り返しのことばが非常に多い。 守るということばが6回も出てきて、ヘブル語でも全部同じことばである。 2節と3節の間の主ということばは太主ではなく、彼ということばである。 昼は日、夜は月から守る方と、わざわいから守るということは並行している。 守る方は眠らないということは出エジプト記12章42節の寝ずの番をされたと いうことを思い出す。 それの反対で、神様は守ってくださるので、眠ることができるということもある。 どちらにしろ、信頼できる神様であるということを言っている。 そこまで、長い詩篇ではないので、クロスリファレンスや、思い出すところを見た。 今回は助け、眠らない、天地を造られた主、月が打たない、行くにも帰るにもと いうことについて見た。 行くにも帰るにもというときに、旅行に行くという話をしているわけではない。 この時代のイスラエル人は普通に旅行に行くようなことはしない。 ヨハネによる福音書10章に、門から出るときも入るときも、羊を守られるとい うことがある。 行くにも帰るにも守るというところで大切なのは、ヤコブの創世記28章の箇所 である。 ここが行くにも帰るにも守るという箇所の一番最初である。 民数記6章のところで、アロンは主が御顔を照らし、守られますようにとイスラ エルを祝福する。 ------------------------------------ +審也@カンノファミリー mailto:shinya@kanno.com -------------------------------------