Subject: 詩篇122篇「金曜日の聖書研究」 |
From: +ShinyaKanno |
Date: 2006/02/17 11:48 |
To: saiwainet |
+ちゃんくんです。 122篇のヘブル語を見るときに、シャということばが非常に目立つ。 この詩篇はシャロームということばがすごく強調されていることがわかる。 1節は人々が私にで始まっているのではなく、喜んだということばから始まって いる。 主の家に行くという言い方はイザヤ書2章3節にある。 主の御名に感謝するために、エルサレムに上って来る。 1節も主の家ということがあって、9節も主の家ということばで終わっている。 エルサレムには、メサイアがいるので、そこに主の御名に感謝するために上って くる。 122篇はエルサレムを見て喜んだという話であるが、ルカの19章にエルサレ ムを見て泣いたというストーリーがある。 キリストはエルサレムを見て、おまえという言い方を使ったりする。 祈りの家のはずの場所が強盗の巣になっているということを嘆いている。 その前の箇所で、キリストはパリサイ人たちに忌まわしいものだということを言う。 祈りの家とは、神様と平和の関係を持つ場所である。 そこに行って、祈ると何かがもらえる場所のことではない。 神様がいる場所についての名前が聖書の中にいろいろある。 教会がどのような場所でなければならないのかについて、この詩篇から教えられる。 平和とは、ただ戦争がないということを言っているわけではない。 平和がなければ、ちゃんとした教会は築きあげられない。 ------------------------------------- +審也@カンノファミリー mailto:shinya@kanno.com -------------------------------------