Subject:
詩篇123篇「火曜日の聖書研究」
From:
+ShinyaKanno
Date:
2006/02/21 10:57
To:
saiwainet

+ちゃんくんです。

■構造分析

  主人の手にはあわれみがあるということがわかる。
  あわれんでくださることと、さげすまれることは対比されている。
  高ぶることも、さげすむことも、目の行いで、そしりは、口の行いである。
  あわれみを求めている目と、あわれみのある手。
  後半は、さげすみでいっぱいであるということを見てくださいということを
言っているほうではないか。
  さげすみでいっぱいであるということを詩人は神様に見てほしい。

■今日の研究課題

  今日は、天の御座、手、見る、あわれむこと、この四つについて見なければな
らない。
  今日の通読の箇所の第一歴代誌21章で、ダビデは主の手に陥りたいというこ
とを言う。
  黙示録の中では、天を見ているのではなく、天の中に入っている。
  ステパノは死ぬ前に、神の右に立っておられる主を見る。
  エズラ書にいっぱい主の御手という言い方がある。

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+審也@カンノファミリー
 mailto:shinya@kanno.com
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