Subject:
詩篇123篇「水曜日の聖書研究」
From:
+ShinyaKanno
Date:
2006/02/22 10:49
To:
saiwainet

+ちゃんくんです。

なぜ、123篇は都上りの歌の一連の詩篇の中に入っているのか。
たとえのほうが理解しずらく、天の御座についている方に目を上げるということ
のほうが理解できる。

■主人、または女主人の手は何を奴隷にしてくれるのか。

  1)奴隷に仕事をくれる。(京子ママ)

  2)奴隷が傲慢になったときに、懲らしめてくれる。(和也)

  3)主人の手に奴隷が目を向けるときに、あわれんでくださる。(契也、
くー、ちゃんくん)
    123篇から言うならば、あわれみの手ということになるだろう。
    さげすみから守るあわれみの手ということを言っている。
    123篇のあわれんでくださいの理由は、さげすみで大変ですということで
ある。

  ごはんをくれるあわれみの手というようなことはとくにこの詩篇の中では言っ
ていない。

  羊本は、ネヘミヤの4章が大切であるということを言っている。
    この時には、民はサヌバラテにそしられながらも、城壁を造っていた。
    片手には、投げ槍を持ち、もう片方の手では仕事をしている。(4章17節)
    とくに、ネヘミヤ書の4章のところには、手ということについて出てこない。

  奴隷の目が主人の手に向けられるということは、よくある話だから、たとえに
使われる。
  手は支配をあらわしているということはわかる。
  穴から救い出すときにも、手を使って、引き上げる。
  マリヤははしためで、女しもべであるということを自分で言う。
  主人と奴隷のたとえを読むときに、羊飼いと羊のたとえを連想する。
  右の御手によってイスラエルをエジプトから連れ出されたということはまだわ
かる。
  イザヤ書50章2節で、私の手が短くて贖うことができないのかということを
言う。
  奴隷は次の指示が来るのを待っているということを言う人がいる。
  奴隷の時代がどのような時代だったのかぜんぜんよくわかっていないというの
もあるだろう。
  2節をどのように読むのかで、かなりかわってしまう。
  神様の手についての話はたくさんあるが、どのように123篇の手とつながっ
ているのか。
  1節と2節の最後のところだけであれば、ぜんぜん、違和感がない。
  奴隷というのは、世界的にさげすまれているものである。
  奴隷になっちゃったぐらいの人であるから、あまりちゃんと働かなかったりする。
  安息日の日には、奴隷もいっしょに連れて行かなければならない。
  イスラエルの律法の中で、在留異国人、貧しいものたちをさげすんではならな
いということを強調する。
  天の御座についておられる方よという呼び方をするときは、だいたい奴隷のよ
うな状態にあるときである。

■前回の聖書研究

  前回はネヘミヤ書1-3章と123篇とのつながりを見ていた。

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