Subject: 詩篇123篇「金曜日の聖書研究」 |
From: +ShinyaKanno |
Date: 2006/02/24 10:27 |
To: saiwainet |
+ちゃんくんです。
■都上りの歌
どうして、都上りの歌の詩篇になっているのかは、この詩篇の中からだけでは
わからない。
120、121、122、123、124篇とつながっているのに、来週ぐら
いにはそのつながりを見ようとしている。
■詩篇123篇の構造
目を主人の手に向けるということがくり返されている。
3節の途中にキーがあって、「あわれんでください。なぜなら、さげすまれて
います」ということになっている。
あわれんでくださいということは、ハンナという名前の意味である。
前半は主に向かって目をあげるということに囲まれて、たとえがある。
後半はAABBで、あわれんでくださいが二回あって、さげすみでいっぱいが
二回ある。
1節は天の御座についておられる主に目をあげるということで、2節はあわれ
む神に目をあげるということになっている。
前半は、主人としもべの関係で、後半はあわれみとさげすみの対比がある。
しもべとさげすみが同じようなことであるということが、いろいろな箇所を見
るときに、言うことができる。
奴隷はしもべはさげすまれるもので、弱いものである。
■今週の研究
2篇にも、天の御座についておられる方は彼らをあざけられるということがある。
エズラ書でも、天の神という言い方を使う。他の預言書でもこの言い方を使う。
イスラエルという国じたいが、奴隷になってしまった。
手の話は、聖書の中に、最初からたくさん出てくる。
第一歴代誌でダビデは、主の手に陥りたいということを願う。
力強い御手と、述べられた腕とをもって救うという言い方は何回もつかわれて
いる。
手は一つだけの意味をあらわしているのではないということがわかる。
偶像は人の手のわざであるということは、詩篇115篇と135篇にある。
救う手と、権威をあらわす手と、食べ物を与える手とたくさんある。
天に目をあげて見るということは、ステパノのところを思い出した。
キリストは、この世をさるまえに、目を天に向けて、祈られた。(ヨハネによ
る福音書17章1節)
■今週123篇を学んだときに、問題となっていたのは、2節の奴隷と主人のた
とえの話である。
普通の生活の中で、みんながわかるものなので、たとえとなっている。
なぜなのか、わからないので、そのことについて調べたが、やはりわからな
かった。
いろいろなことを考えることができる。
主人が良いさばきをしてくれるので、その手を見ている。
良い主人に選んでもらいたいので、その主人に目を向ける。
次の指示は何かをずっと見て待っているということも考えることができる。
123篇の中から考えるならば、3節と4節にさげすみでお腹がいっぱいで
あるということをいっている。
さげすみの状態は、剣、ききん、疫病においてとくにあらわされる。
ヨエル書2章のなかで、「私達をあわれんでください。私達はさげすまれて
います」からという。
さげすまれている理由となっているのは、ここではご飯がないということに
なっている。
食べ物が豊に与えられているということは、あわれまれていることがよくあ
らわされることの一つである。
この時代の人たちは、普通にわかっている話である。
それを調べる手がかりが聖書の中にないかもしれない。
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+審也@カンノファミリー
mailto:shinya@kanno.com
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