Subject: 詩篇124篇「火曜日の聖書研究」 |
From: +ShinyaKanno |
Date: 2006/02/28 10:55 |
To: saiwainet |
+ちゃんくんです。
■詩篇124篇の訳
4節と6節の私たちと訳されていることばは、ヘブル語では私のたましいとい
うことばである。
2節の人々と訳されていることばは、アダムということばである。
■鳥のように助け出される
大水が私の上を越えていきましたというストーリーはけっこう聖書の中にある。
しかし、鳥のように助け出されるということについては、あまり思い出す箇所
がない。
詩篇91篇の3節では、主は狩人のわなから助け出されるということがある。
また、箴言6章5節にも、鳥が鳥を取る者の手からのがれるように、自分を助
け出せと言う。
25篇の中で、私の目は主に向けられています。主が私をわなから助けてくだ
さるからと言う。
主に目を向けるというときに、先週の詩篇123篇を思い出す。
エレミヤ書5章26節でも鳥について言われているが、ここでは、悪者につい
てのたとえで鳥が使われている。
27節のところに、彼らの家は欺きでいっぱいであるというときに、123篇
のさげすみでいっぱいというところも思い出す。
鳥はひなである自分の子供を助ける。(申命記32章11節)
翼の箇所はやはり黙示録が一番最後である。
詩篇18篇に主はケルブに乗って飛ばれるということがある。(第二サムエル
記22章)
めんどりがひなを集めるようにという言い方がマタイによる福音書23章とル
カによる福音書13章にある。
めんどりは雌のことのほうで、わしは雄のことを言っている。
■天地を造られた主
天地を造られた主という言い方は、聖書の中にたくさん出てくる。
たとえば、第二歴代誌2章12章で、フラムは、「天地を造られた主はほむべ
きかな」と言う。
使徒行伝4章24節で、人々は、「主よ。あなたは天と地と海、すべてを造ら
れた方です」と言う。
天地を造られた主という言い方は、134篇にもある。
134篇は都上りの歌の一連の詩篇の中で一番最後の詩篇である。
なぜ、詩篇124篇は天地を造られた主という結論で終わっているのか。
出エジプトのストーリーと天地を造られた主ということはどのようにつながっ
ているのか。
■大水が越える
大水が越えるということのストーリーはノアが一番最初である。
ノアよりも最初に出エジプトのストーリーを思い出すが、ノアのほうが最初で
ある。
・詩篇18篇4節
・詩篇42篇7節
・詩篇69篇15節
・イザヤ書8章7節から8節
この箇所には、水と翼についての話がいっしょに出てくる。
・エレミヤ書46章7節から8節
・ダニエル書9章26節から27節
翼というときに、契約の箱の上にあるケルビムを思い出す。
しかし、この翼はケルビムの翼のことをあらわしていないかもしれない。
でも、翼が神殿のどこかのことをあらわしているのにはかわりはない。
・黙示録12章15節から16節
14節のところに女に大鷲の翼が二つ与えられたという話がある。
・黙示録17章1節と15節
大水は国々をあらわしているということも言える。
私たちはその大水の上にいなければならない。
・出エジプト記15章
モーセの歌の中で、何回も敵は大水に飲み込まれたということを歌う。
出エジプト記19章4節に、神様はわしの翼にのせて、イスラエルをエジプ
トから連れ出されたと書かれている。
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+審也@カンノファミリー
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