Subject:
詩篇125篇 対比(将)
From:
Shou Itou
Date:
2006/03/07 20:13
To:
"+saiwai.net" <saiwainet@yahoogroups.jp>

こんにちは、+イトウショウです。

詩篇125篇と同じ「イスラエルの上に平和があるように」という表現が出てくる
詩篇128篇を見ました。

  この二つの詩篇はどちらも短いが、似ている意味の表現がいくつもある。

  まず最初に目に付くのは、どちらの詩篇でも最初に出てくる「主を畏れる」
または「主に信頼する」という表現である。主を「畏れる」ことは、主を「恐れ
る」こととは違う。
  「恐れる」ことは恐怖を伴うことであり、神を「恐れる」ということは、神
について何か恐怖を持っているということである。確かに、人間は神の裁きを
「恐れる」のであるが、それでは、もし神が裁く神ではなかったなら、恐れると
いうことはなくなってしまう。
  「畏れる」というのは、単なる「恐れ」だけではなくて敬って礼拝する心や
感謝の心が含まれるものである。私たちが神を「畏れる」のは、神が正義の神で
あられ、恵みを与えてくださったからである。私たちが神に対する感謝を表す手
段は、祈祷や讃美である。
  「信頼する」というのは、自分の力を否定して、全てを神にゆだねるという
ことである。しかし、罪人がこれを行うのは非常に困難である。罪人は神を退け
る性質を元来持ってしまっているので、自分の力に頼りがちなのである。神は道
から逸れてしまった罪人たちを戻して下さるので、私たちはこれも感謝して受け
なければならない。

  詩篇128篇には、125篇に書かれている「主が御民を囲まれる」という事柄の
結果の一例が書かれているのではないかと思う。つまり、主が御民を囲んでいて
くださるので、私たちの働きが祝福されるのである。自分たちの力に頼って働く
ならば、それは決して祝福とはならない。

  「シオン」は主が住まわれるところである。主が住まわれるところはもっと
絞ると神殿である。つまり、主に信頼する人々は主の神殿のようなのである。神
が住まれる神殿は全世界の中で一番聖いものであった。同じように、主の民も聖
いのである。

-- CREC Mitaka Evangelical Church - MFK Shou Itou - Christian Homeschooler in Japan mailto:shou_itou@parkcity.ne.jp