Subject: 詩篇125篇「水曜日の聖書研究」 |
From: +ShinyaKanno |
Date: 2006/03/08 12:15 |
To: saiwainet |
+ちゃんくんです。
■連想する箇所
今日読んだ119篇の41節からの段落の中に125篇を思い出す言い方がある。
48節のところに、私はあなたの仰せに手を差し伸べるということを言っている。
■イスラエルの上に平和があるように
イスラエルの上に平和があるようにという言い方は128篇にもある。
この言い方を125篇の中でどのように考えるのかということがある。
イスラエルの上に平和があるようにという言い方を挨拶として考えるのか、別
の考え方にするのかで意味がかわってくる。
民数記6章でも、イスラエルの上に平安があるようにとアロンが言っている。
この民数記の箇所ではイスラエル人を祝福するときに、この言い方を使っている。
■構造分析、つながり
イスラエルの上に平和があるようにという言い方は、1節と並行しているかの
ように見える。
しかし、いろいろな箇所を見ていくと、そうではないことがわかってくる。
1節とイスラエルの上に平和という言い方が並行しているという見方もありうる。
日本語では1-3節も4-5節もAABBになっているように見える。
しかし、ヘブル語では1-3節も、4-5節もABBAになっている。
1-3節はAABBという見方もできるが、ABBAでもある。
3節の頭にはなぜなら(キー)という接続詞があるので、理由になっているこ
とがわかる。
・1-3節と4-5節のつながり
1-3節と4-5節のつながりをわかったうえで、それぞれに題をつけなけ
ればならない。
その題を足すと、イスラエルの上に平和があるようにということになる。
1-3節にも、4-5節にも、もう手がかりがある。
イスラエルの上に平和があるようにというのが答えであるということはわ
かっている。
山というときに、岩を連想することは大切なことである。
山ということをいうときに、契約の箱を忘れてはならない。
山に信頼するということは、契約に信頼するということである。
ちょくせつは箱ということばは出てこないが、契約の箱を連想しなければな
らない。
1-3節と4-5節にはとくに平和については出てこない。しかし、平和の
土台である。
正しいさばきがなされているということが平和である。
正しい者がよしとされて、悪者は悪とされるということが正しいさばきである。
王様の一番求めなければならないことは正しくさばく知恵である。
4-5節で言われている悪者は、民の中にいる悪者のことである。
なぜなら、5節に曲がった道にそれる者という言い方がある。
1-3節は外にいる悪者のことで、4-5節は中にいる悪者のことである。
悪者は主の民を正しいさばきがなされていないかのように、誘惑する。
平和という結果だけ求めても、その道を知らなければ、ほんとの平和ではない。
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+審也@カンノファミリー
mailto:shinya@kanno.com
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