Subject:
詩篇128篇 TSK(将)
From:
Shou Itou
Date:
2006/03/28 20:44
To:
"+saiwai.net" <saiwainet@yahoogroups.jp>

こんにちは、+イトウショウです。

詩篇128篇のTSKクロスリファレンスを見ました。

■1節

・詩篇103;1, 13, 17
  わがたましいよ。【主】をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。
聖なる御名をほめたたえよ。
  父がその子をあわれむように、【主】は、ご自分を恐れる者をあわれまれる。
  しかし、【主】の恵みは、とこしえから、とこしえまで、主を恐れる者の上
にある。主の義はその子らの子に及び、

    詩128の「全て…者」は、ここで「すべてのもの」とつながっている。主
の道を歩む人々は、その証拠として神を讃美する。これは私たちが当然しなけれ
ばならない義務である。そして、詩篇は讃美に使うのにふさわしい。

・詩篇1:1-3
  幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者
の座に着かなかった、その人。
  まことに、その人は【主】のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ず
さむ。
  その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉
は枯れない。その人は、何をしても栄える。

    詩1は詩128と全体的に似ている。2つとも、幸いな人とその人に与えら
れる報いについて書いてある(詩1は悪者についても)。詩1「罪人の道に立たな
い」というのを肯定的に言ったのが詩128「主の道を歩む」である。私たちは主
の道を歩むとき、周りにいる罪人たちのようにならないようにしなければならな
い。詩128では幸いな人の子孫が「木」のようであると書かれているが、詩1では
対比的に幸いな人自身が「木」であると書かれている。

■2節

・イザヤ書3:10
  義人は幸いだと言え。彼らは、その行いの実を食べる。

  この箇所の後半は、前半を説明する理由である。この箇所は詩128と似てい
るが、意味が異なるようにみえる。詩128は「幸いな人の働きは祝福される」と
いうような趣旨であるが、イザ3は「義人はその行いの実を食べる"ので"幸いで
ある」というポイントだからである。しかし、義人は悪を行わない、言い換えれ
ば悪者の道を歩まない、それを肯定的に表現すると主の道を歩む人である。この
意味で2つの箇所は同じポイントを指している。

-- CREC Mitaka Evangelical Church - MFK Shou Itou - Christian Homeschooler in Japan mailto:shou_itou@parkcity.ne.jp