Subject:
詩篇128篇「草のよう」
From:
+ShinyaKanno
Date:
2006/04/05 7:32
To:
saiwainet

+ちゃんくんです。

「草のようである」ということについて見ました。

まず最初にこの言い方を読むときに、1篇を思い出す。
ここでは、正しいものは木ということの反対として、このたとえが使われている。
悪者は風が吹き飛ばすもみがらのようである。

次はイザヤ書40章6節、7節、8節と第一ペテロ1章24節、25節を思い出す。
第一ペテロの箇所はイザヤ書を引用している箇所である。
この箇所では1篇に似ていて、「主が風を吹くと、草は枯れる。」と言っている。
ここでは民が草だと言い、神様のことばが永遠に堅く立つことの反対として使わ
れている。
悪者が草であるということについてはとくに言っていない。

第二列王記19章26節でもこれと同じような言い方を使う。
これはヒゼキヤがセナケリブに責められて、そのことについて主に祈ったときの
答えである。
その中で主が民の力はうせ、屋根の草のようだといっている。

ヨブ記5章25節では子孫が増え、地の草のようになると言っている。
ここでは祝福の意味をさしている。空の星のようになるということの別の言い方
でもある。

詩篇37篇2節、詩篇90篇5節、詩篇103篇15節でも同じような言い方を
使う。
37篇2節では悪者が草のように枯れるということを言っている。
90篇や、103篇は悪者については言っていない。
90篇では、人はちりといったあとに、人は草のようであるということを言う。
103篇では人の日はということを言っていて、直接人をさしてはいない。

イザヤ書5章24節にも似た言い方がある。
ここでは、万軍の主のみことばをないがしろにすると、草のように枯れると言っ
ている。

新約聖書のヤコブ書1章10節では、富んでいる人についてこのたとえを使って
いる。
富んでいる人は、草のように枯れますということが言われている。

第一ペテロ1書24節がこの言い方の一番最後の箇所である。

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