Subject: 詩篇130篇「金曜日の聖書研究」 |
From: +shinya@kanno.com |
Date: 2006/04/14 10:16 |
To: saiwainet@yahoogroups.jp |
+ちゃんくんです。 130篇「金曜日の聖書研究」06/04/14 ■130篇の分析 4節はなぜならという接続詞から始まっている。 日本語にあるこそはなぜならを訳したものである。 4節の赦しがともにと、7節の恵みがともに、あがないがともにというのは平行して いる。 恐るべき神と赦しの神というが平行していることが別の箇所からわかる。 3節の不義に目を留めると、6節の夜回りが平行している。 目を留めるというのは、守るということばである。 園を守らせるということばとも同じである。 神様は不義を見ない、私たちは神様を待つということは平行している。 130篇は四つにわけて、考えるのがいいんだろう。 ほとんどの人が、同じわけかたであった。 (1ー2節、3ー4節、5ー6節、7ー8節) ■赦し 今週は特に、赦しとは何かということについて考えた。 まず、詩篇130篇から始めて、考えた。 赦しについて130篇からいろいろなことが言える。 ・不義に目を留めない ・赦されると御前に立つことができる ・恐るべき神=赦しの神 ・赦しはともに=恵みはともに、あがないはともに 恐るべき神と赦しの神がいっしょであるということはダニエルの祈りや、ネヘミヤの 祈りから見ることができる。 罪が赦されていないと、私たちが叫んでも、神様は聞いてくださらない。 今週の通読の箇所でもあったハバククでは、呼んでも聞いてくださらないのですかと いうことがあった。 ハバククには律法が眠っているという言い方である。 赦しについて知るために、今回はソロモン、ネヘミヤ、ダニエルの祈りを見た。 ソロモンは青銅の祭壇と同じ大きさの台の上にのって祈っている。 これらの箇所は神殿ということでつながっている。 ネヘミヤは灰をかぶって、自分をいけにえとして祈っている。 130篇をソロモン、ネヘミヤ、ダニエルの祈りの要約であると考えることもできる 。 不義とはなんですかということをダニエル書から見た。 みことばを聞かなかったので、みことばに書かれているのろいを招いた。 しかし、彼らは神様に立ち返られなかった。 ダニエルの祈りの最後では主の名がつけられている町があれ果てているので、聞いて くださいという言い方がある。 このように考えて、130篇は神殿再建を求める祈りではないかということが言える 。 前から130篇は悔い改めの詩篇と言われている。 七つあるうちの一つが130篇である。 このようにジャンル分けしてしまうとあまりよくない。 不義の赦しとは個人的な話である。 不義には敵のそしり、攻撃がついている。 敵がさばかれることなしに、不義の赦しは完成しない。 神様を恐れていても、恐れなくても祝福されるということはぜんぜん良い話ではない 。 キリストが十字架にかかってくださったのは、教会が築き上げられるためである。 AD70年のさばきなしで、赦しは完成しない。 ------------------------------------- +審也@カンノファミリー mailto:shinya@kanno.com -------------------------------------