Subject:
詩篇131篇「火曜日の聖書研究」
From:
+shinya@kanno.com
Date:
2006/04/18 10:20
To:
saiwainet@yahoogroups.jp

+ちゃんくんです。

131篇「火曜日の聖書研究」06/04/18 

■深入りしません

1節の深入りしませんと訳されていることばは、歩き回るということばである。
エデンの園を歩き回れる主の声を聞くというのと同じことばである。
また、エノクは神とともに歩んだということばとも同じである。
それと、四つの川が流れていたというのも同じことばである。

■イスラエルよ。主を待て

この言い方を別にして考えるのがいいのか。
130篇の場合は最後だけではなかったので、いっしょに考えた。

■130篇とのつながり

先週は130篇は悔い改めの詩篇とか言っていたが、
131篇も悔い改めの詩篇ということが言える。
だから、ジャンル分けしてしまうと、問題がおきる。

1節と2節で3節のことを説明している。
別の言い方でいうと、3節は1節と2節をようやくしたものであるということになる
。
130篇でも主を待つということの説明をしていた。

■131篇の構造

やはり、131篇の構造は4つにわかれるだろう。
1節ではロー(しない)ということが目立つ。
しかし、2節ではイムロー(必ずする)ということが目立っている。
イムローは誓いのことばである。

ABBA、ABABとAABBの三つにおいてつながりを考えることができる。
AABBは×、○においてわかる。

不思議な知るべきではないことをさぐろうとしませんと言っている。
申命記29章で隠されたものは神のものと言う。
ここで、大切なのはあらわされたものを守りなさいということである。
1節は悪い意味で疑っているということになっている。
主を待つことができていないということになる。
静かになるということは、へりくだるということでもある。
直接、高ぶっているから、低くなりますという言い方はない。

■第一テモテ6章3節から

高ぶって、疑っている人たちは自分たちの利益のためにやっている。
自分が成功するために、何でもやろうとする。
これをしようとする人たちは、争う。
神様と争う者は神様のみことばに従わない。

この人たちは教会のリーダーたちに反逆する。
リーダーが正しく教えているのに、まちがった教えをする。
教会をだめにして、自分で導こうとする。

モーセに逆らうことによって、神様に逆らう。
モーセは神様のみことばを告げるので、きらいである。
神様に信頼するものは、心配しない。

モーセはリーダーとして、民にどうなるんだということを訴える。
しかし、神様に対して、直接は言わない。

リーダーが良いとすごく楽である。
私たちのリーダーであるキリストは忘れない、遅れない。

高ぶり、疑うことが131篇の中で、不義である。
私たちは罪を犯すつもりではなくても、疑ってしまう。
私たちの生活の中ではあやまってやってしまうことがほとんどである。
罪というときに、普通は高ぶりのほうのことを考える。

ヨブ記42章3節で、ヨブは1節と同じようなことを言う。
三人の友達はヨブに「なぜ、神をためすのか」と言う。
三人の友達は心理を疑っている。

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