Subject:
詩篇131篇「水曜日の聖書研究」
From:
+shinya@kanno.com
Date:
2006/04/19 10:51
To:
saiwainet@yahoogroups.jp,saiwainet@yahoogroups.jp,saiwainet@yahoogroups.jp,

+ちゃんくんです。

131篇「水曜日の聖書研究」06/04/19 

■131篇の構造

1節前半、後半、2節の前半、後半にわけて、3節は別にして考える。
3節の言い方は130篇の言い方を思い出す。
130篇は不義を赦してくださるということの中に、待つというテーマが出てきた。
131篇の中には、神様が何かしてくださるということはない。
131篇では私たちがなにをすればいいのかということが、強調されている。

主を待つとはどのようなことなのか。
130篇では不義を赦してくださることを待っていた。
131篇の場合はなにを待つのかではなく、どのように待つのかということである。
131篇は一言で言うならば、敬虔に待つということになる。

1節は主を待つということに対して、否定的なことを言っている。
2節はその反対で、肯定的なこと言っている。
主を待つの反対は、主を待たないということをだが、主の命令に逆らう人のことであ
る。
1節の高ぶることに対して、2節は静まるということである。

高ぶっている人はいつも争っている。
心が高ぶっている人は、自分で見ないと信じようとしない。
いつも疑っているということになる。
高ぶっている人は、神様と争おうとする。
主を待っていると言っても、疑っているのなら、それは待っているということにはな
らない。
このことは、第一テモテ6章から知ることができる。

■第一テモテ6章

6章6節の満ち足りる心を伴う敬虔こそという言い方を思い出して、第一テモテ6章
を見ることになった。
神様に逆らう人は、神様が立てたリーダーに逆らうことになるということもここから
わかる。
自分たちの利益を得るために、これらの争いをしたりする。

正しさ、敬虔、信仰、愛、忍耐、柔和をもって、主を待つ。
このことは第一テモテ6章11節から見ることができる。
待つというときに、なにもしないというわけではない。
待っているときに、行けと言われるときがある。
行けと言われたときに行かない、行くなと言われたときに行くというのは待っていな
いということである。
待っているといいながら、なにもしないなら、待っていることにはならない。
心配するというのも、疑っているということになる。
正しさを行っている人は、王様の前で恐れることはない。

私たちの場合は、待っていたものが来た。
131篇そのままを歌わない。
来たがあらわされることを私たちは待っている。

ヨブはヨブ記42章の中で、私は大きなことに深入りしましたということを自分で言
っている。

高慢なものは、大きなことを自分で、勝手に解釈しようとする。
自分の心にある不満は、口から出てしまう。

私たちは、主を待つときに、正しさを行わなければならない。

■研究課題

今日は高ぶることについて研究するのがよいだろう。
2節の言い方は123篇を思い出す。
130篇とのつながりを見なければならない。

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+審也@カンノファミリー
 mailto:shinya@kanno.com
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