Subject:
詩篇135篇「木曜日の聖書研究」
From:
+shinya@kanno.com
Date:
2006/05/25 9:20
To:
saiwainet@yahoogroups.jp

+ちゃんくんです。

135篇「木曜日の聖書研究」06/05/25 

■宝の民

4節、5節のご自分の宝とする、大いなる方ということと、14節のさばいて、あわ
れむということが平行している。
どちらとも、キー(なぜなら)という接続詞で始まっている。
今日の通読の箇所でもあったマラキ書3章にもご自分の宝とするという言い方が出て
きた。

民を宝とすることは民をあわれむこととイコールである。
このことは大いなるさばきによって行われることである。
マラキ書3章17節でもわたしの宝とするということと、民をあわれむことがいっし
ょになっている。
事を行う日に民は宝となる。

宝の民という言い方は出エジプト記19章5節が一番最初である。
ここは十戒の前の箇所である。
6節には祭司の王国、聖なる国民という言い方がある。
声に聞き従うなら、国々の中にあって宝となる。
4節ではわたしがエジプトでしたことを見たと言っている。

申命記7章6節にもご自分の宝の民とするという言い方がある。
また、5節では偶像をこわしなさいと言われている。
8節ではエジプトの王パロの手から救われたということが言われている。
この箇所は今度は十戒が与えられたあとである。

申命記14章2節では聖なる民という言い方もいっしょに出てきている。
そのあとに、汚れた動物と、きよい動物の命令がある。

申命記26章18節では約束どおりに宝の民とするという言い方になっている。
19節では主の聖なる民となるという言い方もある。

祭司の民として、カナンの地に入ったときに、戦わなければならない。
これこそ、主の命令に聞き従うということである。
偶像礼拝をするものを追い出す、その国のように偶像礼拝をしないということが命令
である。

神様の宝は私たちで、私たちの宝は神様からのおしえである。
相続地が与えられることによって、私たちが宝とされていることがわかる。
すべては、神様のものである。(出エジプト記19章5節)

このように見てくると、135篇と118篇はあまり似ていないということが言える
。

■115篇、118篇とのつながり

115篇でも、118篇でも強調されていることは主に信頼せよということである。
135篇では主を祝福せよというのが強調されている。

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+審也@カンノファミリー
 mailto:shinya@kanno.com
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