Subject:
詩篇140篇「水曜日の聖書研究」
From:
+shinya@kanno.com
Date:
2006/06/28 10:58
To:
saiwainet@yahoogroups.jp

+ちゃんくんです。

140篇「水曜日の聖書研究」06/06/28 

7節の頭をおおうというのは戦いの日に、かぶとをかぶることを言っている。
かぶとについてはエペソ6章に書かれている。

くちびるの害毒がおおうということは、蛇にかまれるということになる。
毒のエキスが注がれるかのようなことを想像してしまう。
サタンは頭をねらって攻撃してきて、足をねらっているわけではない。
しかし、創世記3章15節では、かかとにかみついたら、頭が踏み砕かれた。

サタンは人を攻撃するときに、口をもって攻撃してくる。
口はたましいに対して、ダメージを与えることができる。
普通の人は、一番の問題が口であると思っていない。

祈りと言うときには140篇のような祈りは祈らない。
普通は、お金ください、ごはんください、病気いやしてくださいということを祈る。

しゃべるために造られた口を用いて、主に感謝しなければならない。
13節は感謝しましょうということではなく、感謝していますということになってい
る。
御前に住むということは、感謝する者から離れないということである。

1ー3節の攻撃している人に対して、正しい者は何をするのかというのが12ー13
節に書かれている。
神様がやってくださるから、正しい者は何もやらないということではない。

1節のよこしまなものということばは悪ということばである。
悪者の悪とは別のことばなので、悪の人とは訳さない。
善悪の知識の木の悪と同じことばでもある。

善悪の知識の木というときに、正しいことと、悪いことのように考えてしまう。
悪というときには、暴虐ということを言っている。
暴虐ということばを使うと、すごく悪いかのように感じる。

サタンは感謝だけで戦っていけるのかということを攻撃してくる。
まず、感謝ということばを言うところから始めなければならない。
感謝することだけで食べていけるのかということを普通、みんな心配する。

一人ぼっちで神様の御前に住むということはあり得ない。
正しいものが御前に住むということはどのようにあらわされるのか。
神様の教会とともにいるということにおいてあらわされる。
この詩人は穴が孤独であると考えている、それの反対である。
これは十字架上での祈りが書かれている22篇を見れば、よくわかる。

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+審也@カンノファミリー
 mailto:shinya@kanno.com
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