+カンノカズヒコです。
さあ、どちらでしょう。
どちらもありうると思うのですが、「神様が言った」ほうかなあ?
■ ダビデが民に言った
- 緑本:このような経験による教訓は、もともと神より出るものであるが、自分個人で止められてしまう性質のものではなく、それが他人にも証され、伝達されるべきものであるので・・・
- 白本:罪赦されたダビデが次になすべきことは、何か。罪赦された罪人として、ダビデは人々に真の悔改めを勧めている。詩篇34:11や詩篇51:13を考えるとダビデのことばと理解したい。もちろん、それは預言者とも言うべきダビデを通してのことばでもある。
- カルヴァン:この勧めがいっそう大きな効果をもつように、ダビデはひとりびとりに、別々のことばをかける・・・
- カンノパパ:たくさんの詩篇の中で、詩篇作者は、自分の救いをひとりで個人的に喜ぶことは無い。いつも民に賛美するように招くのが普通。32篇でも、6節で「すべての敬虔な人」、11節では、「すべての 心の直ぐな者たちよ」と招く。自分の救いを感謝し、民にも、悔改めて神に従うことをすすめていると考える。
■神様がダビデに言った
- 白本:このわたしを「主」と理解する立場もある。詩篇16:7、詩篇25:8、12
- アウグスチヌス:彼は、詩篇32を愛して、しばしば涙と共にこの詩篇を朗読したといわれる。彼は、神が教えてくださっていると考える。
- ひつじ本:回復された人に、直接、教え、さとし、助言し、見つめてくださる。
- カンノパパ:
1)サムエル記の記録の中で、ダビデの悔改めには、いつも、「助言者」がいる。
助言者に教えられれ、または、試されることによって、神の声に聞き従うかいなかを問われる。従者たち、アビガイル、ナタン、ヨアブなど。サウルは、助言者に聞こうとしない。アダムは、助言者サタンを退けなかった。
5節だけをみると、ダビデは、自分で自発的に悔改めようとしたと受け取れるが、それは普通ではない。恵みによって、助言者や預言者を通して、悔改めに導かれる。
2)サムエル記のキアスマスの中心は、アビガイルの助言を聞いて、罪を犯さないように守られた話である。
3)罪人は、神の道を歩むなら、神の律法を守るなら、悔改めに導かれる。何度も何度もいけにえを捧げることになる。悔改める機会は十分にあたえられている。旧約時代は、律法と預言者によって道を教えられた。私たちには聖書がある。毎週の聖餐式のたびに、神様に教えられ、罪が赦されたことを感謝するように導かれる。もちろん、主の民とともに賛美することになるが。
4)他の悔改めの詩篇などを見ると、罪の赦しと、恵みによって道を教えられる話は、よくいっしょに出てくる。
というわけで、罪の悔改めと助言は、切っても切れない関係だと考えます。
それで、5節の「罪の告白と赦し」と8・9節の「罪人に道を教える」とが、構造の中で対になっているというのが私の概略です。
それで、ダビデは、民に助言しているとも言えますけどね ;)
私たちの主のひとつの名は、「助言者」。