Subject: RE: [saiwainet] 詩篇32篇8節は、ダビデが言った、それとも、神様が言った? |
From: kanno@kanno.com |
Date: 2001/04/19 22:06 |
To: <saiwainet@egroups.co.jp> |
+カンノカズヒコです。すみません、またまた、文字化けしちゃったので再送しま す。 さあ、どちらでしょう。 どちらもありうると思うのですが、「神様が言った」ほうかなあ? ■ ダビデが民に言った 緑本:このような経験による教訓は、もともと神より出るものであるが、自分個人で 止められてしまう性質のものではなく、それが他人にも証され、伝達されるべきもの であるので・・・ 白本:罪赦されたダビデが次になすべきことは、何か。罪赦された罪人として、ダビ デは人々に真の悔改めを勧めている。詩篇34:11や詩篇51:13を考えるとダ ビデのことばと理解したい。もちろん、それは預言者とも言うべきダビデを通しての ことばでもある。 カルヴァン:この勧めがいっそう大きな効果をもつように、ダビデはひとりびとり に、別々のことばをかける・・・ カンノパパ:たくさんの詩篇の中で、詩篇作者は、自分の救いをひとりで個人的に喜 ぶことは無い。いつも民に賛美するように招くのが普通。32篇でも、6節で「すべ ての敬虔な人」、11節では、「すべての 心の直ぐな者たちよ」と招く。自分の救 いを感謝し、民にも、悔改めて神に従うことをすすめていると考える。 ■神様がダビデに言った 白本:このわたしを「主」と理解する立場もある。詩篇16:7、詩篇25:8、1 2 アウグスチヌス:彼は、詩篇32を愛して、しばしば涙と共にこの詩篇を朗読したと いわれる。彼は、神が教えてくださっていると考える。 ひつじ本:回復された人に、直接、教え、さとし、助言し、見つめてくださる。 カンノパパ: 1)サムエル記の記録の中で、ダビデの悔改めには、いつも、「助言者」がいる。 助言者に教えられれ、または、試されることによって、神の声に聞き従うかいなかを 問われる。従者たち、アビガイル、ナタン、ヨアブなど。サウルは、助言者に聞こう としない。アダムは、助言者サタンを退けなかった。 5節だけをみると、ダビデは、自分で自発的に悔改めようとしたと受け取れるが、そ れは普通ではない。恵みによって、助言者や預言者を通して、悔改めに導かれる。 2)サムエル記のキアスマスの中心は、アビガイルの助言を聞いて、罪を犯さないよ うに守られた話である。 3)罪人は、神の道を歩むなら、神の律法を守るなら、悔改めに導かれる。何度も何 度もいけにえを捧げることになる。悔改める機会は十分にあたえられている。旧約時 代は、律法と預言者によって道を教えられた。私たちには聖書がある。毎週の聖餐式 のたびに、神様に教えられ、罪が赦されたことを感謝するように導かれる。もちろ ん、主の民とともに賛美することになるが。 4)他の悔改めの詩篇などを見ると、罪の赦しと、恵みによって道を教えられる話 は、よくいっしょに出てくる。 というわけで、罪の悔改めと助言は、切っても切れない関係だと考えます。 それで、5節の「罪の告白と赦し」と8・9節の「罪人に道を教える」とが、構造の 中で対になっているというのが私の概略です。 それで、ダビデは、民に助言しているとも言えますけどね ;) 私たちの主のひとつの名は、「助言者」。 ------------------------------------- +カンノカズヒコ@さいわいネット voice:0422-41-9917 eFax:1-916-314-8292 mailto:kanno@kanno.com http://saiwai.net/ -------------------------------------