W・D・レイミー著
松田出訳

 


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要素C-C'の並行

C 休止:ユダとタマル(38:1-26)
C'休止:ヤコブ、息子らを祝福する(49:1-28)


ヨセフ物語の「C-C'」とストーリー全体との関わりは、一見しただけでははっきりわからない。ヨセフが登場せず、CとBの連結はある(下記参照)にはあるが、とにかく創世記38:1-30さえなければヨセフ物語はうまく収まるように見える。ユダとタマルの唐突なエピソードはヨセフ物語の中でも特異であり、ストーリーの流れを妨げるようだが、これは無意味な付け足しではない。たしかに流れの脱線ではあるが、背景の説明として必要な箇所だ。その関連は後になって判明する。

もう少し直接的な例であるが、前に述べたB'もまた流れからの逸脱といえる。同一テーマの48:21-22と49:29にはさまれていることから、B'がストーリーをさえぎっていることがわかるのだ。ヨセフは38:1-30(C)にまったく登場せず、49:1-28(C')にはわずかにその名前が言及されるにとどまる。D'とA'においてヨセフが目立っているのとは対照的だ。創世記49:1-27は明らかに独立した祝福の詩である。このことは英語版聖書(ヘブル語聖書と同様)の翻訳形式からも読み取ることができる。この詩はカナンの地でのできごとを述べており、38:1-30でのカナンにおけるユダの生活に対応する。きわめてエジプト色の強いヨセフ物語の中では唯一、C-C'のエピソードにはエジプト的要素がまったくない

創世記37章以降においてもうひとつ重要なテーマは、誰がヤコブの長子なのかという点だ。最終的にヤコブは12人の息子を授けられたのであり、長子の権利の行方はどうでもよい問題ではなかった。これを詳しく扱ったのはジュダ・ゴルディンである。本書のこれ以降の箇所は、ゴルディンの著作「The Youngest Son or Where Does Genesis 38 Belong(JBL 96 19771:27-44)」に負うところが大きい。

まず、明らかに長子の権利を持つべきだと思われるのはルベンである。彼は実際の初子だからだ。しかしルベンは許し難いことを行う。彼は自分が兄弟たちのリーダーであることを示威するために、ヤコブのそばめビルハと寝た(創世記35:22)。父のそばめと寝ることは、父の権威を奪い取ることを意味する。これは性的衝動によるものではない(参 IIサムエル16:21-22, I列王2:20-22)。本文が暗示的に表現(「イスラエルはこのことを聞いた」)しているように、ルベンのたくらみは裏目に出る。このときからずっとヤコブはルベンに好意を抱かなかった。それは、ルベンが行なったことにだけによるのではなく、彼がレアの息子だったことにもよる。ヤコブはレアをめとるつもりはなかったからだ。そのかわりヤコブは、長子の権利を持つ者に見せるようなあらゆる好意をヨセフに向けた。ヨセフは、ヤコブが愛したラケルの息子だったからだ。

兄弟たちすべてにとって最年少のヨセフに従うことなどは耐えられないことだった。特に長子の座を奪われたルベンにとってはそうである。ところが、兄弟たちが憎しみを爆発させてヨセフを殺そうと謀ったとき(創世記37:12-20)、ルベンはこれを父の好意を取り戻すためのチャンスと見て「ヨセフを彼らの手から救い出し、父のところに返す(37:22b)」ことを考えた。しかしこれはルベンの善行ではなく、長子の権利を得るための手口であると理解しなければならない。

この企ては失敗する。ルベンのいない間に、ユダが兄弟たちを説き伏せてイシュマエル人の隊商にヨセフを売り、ルベンは英雄になるチャンスを失う。ユダがルベンの企てを察知していたかどうかは不明だ。したがって、ルベンの裏をかくために彼がヨセフを売ったのか、あるいはあわれみを示したということなのかはわからない。ユダがルベンの計画を壊すことだけを目的としていたのであれば、自分の手でヨセフを救い出して父に返すか、または直ちにヨセフを殺すかしたはずである。

ヨセフが消えてしまったときのルベンの狼狽ぶりは明らかだ。彼は「私はどこへ行ったらよいのか(創世記37:30)」と嘆く。この嘆きはヤコブの好意を得ることができなくなったことに対するものだ。それ以来ずっとルベンは哀れである。創世記42:37で彼は、兄弟たちが二度目のエジプト行に際してベニヤミンをエジプトに連れ下ることを認めるようにヤコブを説得するがうまくいかない。ベニヤミンを連れ帰らなかったら自分の子ら(つまりヤコブにとっての孫)を殺してもよいと申し出るが、これはひどい話であった。ゴルディンは「やけくそになった人間だけが口にできる言葉」と評しているが、これは正しい。ヤコブはこの申し出をしりぞけた。

ヤコブは死の床にあって「祝福」を与えながらルベンを非難する。ルベンは最初に生まれた子には違いない。そしてすべての栄誉を長子の権利とともに受け継ぐはずであった。しかしそれを得ることに性急になって父のそばめと寝たことは決して見過ごされることがなかった。このようにしてルベンはしりぞけられた(創世記49:3-4)。

次に長子の候補となるのはシメオンレビであるが、彼らはすでに除外されている(創世記49:5-7)。創世記34章の事件を引き起こしたためだ。そうすると3番目の候補はユダである。

ユダへの祝福は、次第に好意の度合いを増していくように描かれる。ユダがヨセフを売ったことは非難を免れないが、それは少なくともあわれみの表れでもあった(創世記37:26-27)。ユダの二人の息子エルとオナンは悪行がひどかったので主は彼らを殺した(創世記38:7-10)。しかしユダは判断を誤り、息子たちの死はタマルのせいだと思い込む。ここで3番目の息子シェラから子を起こそうとはしなかった。ようやくユダ自らがタマルを身ごもらせてから、彼はタマルが正しく自分が間違っていたことを認めた(創世記38:26)。

副次的ではあるが、オナンのストーリーもまた長子の権利という重要なテーマを扱っている。オナンの罪には、性的倒錯や産児制限という意味はない。自分自身のために長子の権利を奪い取ろうとしたことがオナンの罪であった。エルが死んだ後オナンは、エルの子が生まれない場合は、長子の権利が自分のものになると知っていた。生物学的にいえばタマルに生まれた子はオナンの子であるが、掟によればその子は間違いなくエルの子とされる。つまり長子の権利はオナンを飛び越えてエルの子に与えられるのだ(創世記38:9)。

この後ユダは兄弟たちのリーダーとして頭角を現していく。ルベンは前にヤコブに無視されたが、創世記43:3-10においてユダの発言は聞き入れられ、兄弟たちがベニヤミンを二度目のエジプトの旅に連れて行くことが認められる。それだけにとどまらず、ユダは長子の権利を受けるにふさわしい者らしく、ベニヤミンに災いがふりかかったら一生ヤコブに対して罪ある者となってもよい、という誓いを積極的に行う(創世記43:9)。ヨセフがベニヤミンを罠にかけて責めたとき、ユダはベニヤミンの身代わりとして自分を差し出すという請願を試みる。また、ヤコブ自身もエジプトに下っていこうというとき、彼はユダを信頼し、準備のためにユダを先につかわした(創世記46:28)。ユダはすでに長子としての威厳を得ていた

創世記38章(C)と48:1-28(C')との間にはどのような並行関係が見られるだろうか。中心テーマはタマルによって生まれたふたご、ペレツとゼラフである。ゼラフは最初に手を出したので、そのまま胎を出て長子になるはずだった。彼の手首には赤い糸が結びつけられた。しかし驚いたことにはペレツが割り込んで先に出てきたために彼は長子となった。

この不思議なできごとは、ペレツを長子とした神の選びのしるしである。これはイサクとヤコブにも共通したパターンだ。両者はもともと長子ではなく、神の選びのみわざによって長子の座を獲得したのである。より若い者が選ばれるという現象は、この後もくり返し聖書の中に現われる。ダビデの選び(Iサムエル16:11-12)はその一例である。

ペレツとゼラフのストーリーはヤコブとエサウのストーリーを連想させるという点で重要だ。両方のストーリーにおいてふたごが登場し、長子の権利を受けると思われた者がそれを失う。両者には「赤い色」が関わっている(創世記25:25; 38:30)。そしてペレツは、その祖父ヤコブと同じように自分の兄弟を出し抜いた。

したがって、ヨセフ物語における創世記38章は、ユダがどのようにして長子の座にふさわしい人物になっていったかを裏付けるという点で重要だ。ペレツとゼラフの不思議な誕生のストーリーの後に続く「年少の息子」に注がれる恵みのストーリーもまた、「選ばれた系図」の奇跡の歴史が、まさに12人の中から選ばれたユダから始まろうとしていることを示している。

ヨセフの息子たちへのヤコブの祝福(創世記48)とユダへの祝福(創世記49:8-12)の両方において、このことを確認することができる。ヨセフへの深い愛のゆえに、ヤコブは特別大きな祝福をヨセフに与えたいと考える。神の特別の恵みが年長の者から年少の者に移る、という神の選びの原則を適用することによってそれを成し遂げようとした。ヤコブの解決は、手を交差させ、弟のエフライムを長子として祝福することであった。

しかし、ヤコブは12人の息子をそれぞれ祝福するとき(創世記49:1-28)、ペレツとゼラフの不思議な誕生に現われた原則に逆らうことはできなかった。正統な長子の権利はユダに与えられた。兄弟たちはユダをほめたたえ、彼の前にひれ伏す。統治者の杖は彼のものだ(創世記49:8,10)。そしてヨセフには特別な贈り物が与えられる(創世記49:22-26)が、長子の権利ではない。以上のことからいえるのは、創世記38章と49章は、創世記37章以降のヨセフ物語において、対になったひとつのストーリーであることに議論の余地はないということだ。38章と49章を適切に解釈できなければ、ヨセフ物語の主要なテーマのひとつが宙ぶらりんのままになってしまうのだ。

ユダを除くすべての兄弟たちに与えられた祝福を述べた箇所(創世記49:1-7, 13-28)にキアスマスとして対応する箇所が38章には存在しないことを先に指摘しておいたが、その理由はこれではっきりしたといえる。創世記38章と49:8-12はどのようにしてユダが長子の権利を得たかについての説明なのだ。創世記38章が49:1-7, 13-28に現れないことは特に不思議ではない。

ユダとタマルのストーリーと、ヤコブによる祝福のストーリーとはまったく違う話のようだ。ストーリーの中断や、カナンに関するでき事という共通点はあるにしても、両者のつながりを示すテーマやテーマとなる単語が見つからないようにすら見える。しかし決してそうではなく、以降に掲げるように、CとC’の間には驚くほど多くの共通要素があり、それはヨセフ物語の他のストーリーのどの対よりも多い。

CとC’の共通要素がユダに関連することがわかった以上は、創世記49:8-12にある4番目の息子に関連するヤコブの言葉を調べていくのが妥当であろう。この箇所には難解な部分が多いが、ここ20年の研究により、いくつかの疑問は解けている。この箇所をユダとタマルのストーリーと関連づけて読むことが、問題解決の鍵となったのだ。

  1. ユダへの祝福の言葉を創世記38:1-30に関連づけて見るための鍵は、伝統的に「シロ」と読まれる単語 (49:10)と、「シェラ (38:5,11,14,26)との類似性にある。

  2. 」はユダを離れない(49:10)。これは38:18においてタマルに与えられた品々がユダ自身を指し示した(38:25)ことに対応する。

  3. 「(は)その足の間を離れることはない」(49:10)には確かに性的な含蓄があり、38:15-19においてユダが遊女のところにはいったことと呼応する。

  4. 「彼のろば」 hrye (49:11)は、ユダの長子「エル (38:3,6,7)につながる。

  5. 上と同じく、「彼のろばの子 (49:11)は、ユダの2番目の息子「オナン (38:4,8,9)を連想させる。

  6. ぶどうの木、茎」 (49:11)はソレクの谷を示し、それは38:12-13のティムナの地を連想させる。

  7. カル態の「離れる」(49:10)の語幹 は、ヒフィル態の「取り除く」という単語となって38:14,19に現われる。

  8. 「彼は来る (49:10)は、「彼は来た (38:18)に対応する。

  9. 彼の着物 (49:11)は、語原学的には「彼女はベールをかぶった(おおった)」 (38:15)との関連はない。しかし、両方とも3つの共通した子音字を持ち、いずれも着衣に関する表現である。

  10. 着物」の語幹 が49:11と38:19の両方に現われる。

  11. 長子 が49:3と38:6に現われる。

  12. わが力 (49:3)は「オナン (38:4,8,9)を表すとみられる。

  13. 「力のある、激しい という語が49:3,7にあり、一方、38:17,20では「やぎ という似た語がある。

  14. たわむ」(49:15)と「向く」(38:1,16)とは同じ単語 である。

  15. 道のかたわら が49:17にあり、「道ばた が38:16にある。

  16. 頭韻法の文「ガドについては、襲う者が彼を襲うが、彼はかえって彼らのかかとを襲う (49:19)は38:17,20,23の重要単語「子(やぎ) を示す。

  17. 彼は襲う (49:19)は「告げられた (38:24)を連想させる。

以上のように、17にのぼる数の関連が存在し、創世記38:1-30と49:1-28の並行関係を浮き立たせている。ヨセフ物語に含まれる他のストーリーの対と比べると、この並行要素の数はきわ立って多い。おそらく、ユダとタマルのストーリーと、ヤコブによる祝福のストーリーとが似ていないため、通常よりも多くの単語とテーマによる関連づけの構造が必要だったのだ。

少なくとも、C-C’以外の並行要素は、ストーリーによって互いの類似性が十分はっきりしているため、あらためて多くのテーマ語を盛り込む必要がない。しかしC-C’がほとんど類似していないからこそ、記者はそれらの対応関係を意図的に示すために、このようなテーマ語による関連づけを行なったのである。一般に註解者は、C-C’がヨセフ物語に割り込んでいることについて言及しないものだが、両者が互いに呼応することに気付かなければならない。

 
 
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