W・D・レイミー著
松田出訳

 


全文 PDF (842KB)


THE LITERARY GENIUS OF THE JOSEPH NARRATIVE
authored by Dr. William D. Ramey

原著: http://www.inthebeginning.org/chiasmus/Xfiles/xJoseph_Narrative.pdf
出典サイト: http://www.inthebeginning.org/
 

聖書の文学構造『ヨセフ物語 創世記37-50章』
ウィリアム・D・レイミー著 松田出訳

ヨセフ物語は世界的な文学遺産として賞賛されてきた。ヴォルテールですら、ヨセフ物語が、古代から私たちの時代まで受け継がれてきた文学の中で最も価値あるものと認めている。この点ではエジプト文学もバビロニア文学も比較にならない。失われた息子の物語に、老いも若きも感動させられる。また文学作品としても芸術の極致である。このヨセフ物語の深さ、美しさにみられる文学的特質が聖書学者によって十分に認識されているとは言いがたい。

ヨセフ物語は思いつきやでたらめによってではなく、熟考の上で設計されていることが明らかだ。ヨセフ物語が、創世記、場合によってはモーセ五書すべての中で文学的に最も高い統一性を持つ物語であることは誰しも認めるところであり、したがって間違いなくヘブル語聖書すべての中で文学的な統一性が最も高い。ジョン・スキナーはこれを「旧約聖書の人物伝の中で最も芸術的かつ最も魅力的」("Genesis", 1969:438)と呼んだ。また、ナホム・サルナは「比類のないストーリー構造体」("Understanding Genesis", 1966:211)と評する。

ヨセフ物語を詳しく調べると、その技巧に驚愕する。並外れた緻密さと巧みさをもって、形式を文脈に織り込んだり、意味の中にパターンを編み込んだり、構造をテーマの中に鋳込んだりするなどは、西洋文学においてはまれである。結果としてヨセフ物語は、自らを示し、自らを解き明かすパラドックスになっている。そしてそれらすべては並行法によって記述される。さらにパラドックスの主なしくみをよく調べると、ひとつひとつの語によって問題を提示し、ストーリー全体のパターンによって最終的な解決を行なっていることがわかる。

ヨセフ物語は最も複雑に記述されている上、旧約聖書の中では比較的長い物語でもある。ヨセフ物語は特別に長い(全446節)ため、それ以前の族長時代のストーリーとは明らかに異なる。最も長い族長物語よりもかなり長いのだ。そればかりか、聖書学の資料批判の仮説が主張するように、個別に書かれた小さなストーリーが次第に継ぎ足されてこれほどの長さのストーリーができてしまったのではない。ヨセフ物語は始めから終わりまで有機的に構成されたストーリーである。その一片たりとも、ほかの部分から独立しては存在しえない

とはいえ、この複雑なストーリーを扱いやすい大きさに区切ること自体に問題はない。文脈の中から、あるストーリーだけを意味のある最小単位に絞り込んで調べることは可能だ。たとえば、ヨセフ物語全体(創世記37:2-50:26)には、「愛される息子、憎まれる兄弟(37:2-11)」、「争いと偽り(37:12-36)」、「義を守る:ユダとタマル(38:1-30)」などの小ストーリーが含まれる。これらのストーリーは長さも複雑さもまちまちであるが、どちらかというと自己説明的である。

ストーリーそれぞれにはまず状況説明があり、それに続いて登場人物の行動が描かれる。必ずクライマックスと一定の結末が伴うが、そのことによってヨセフ物語全体の緊張感が失われることはない。ストーリーの動きが一時的に休止するだけだ。小ストーリーの歯切れよい連携によって全体が統御され、大きく複雑な物語が小さい意味のある部品に分割されている。物語の中でもともと一貫性の高い箇所についても記者は妥協せず、細部にいたるまで注意を払っている。ヨセフ物語全体の雄大さは、部分が互いにとけ合って全体になることによってもたらされる。

■文学技巧としてのキアスマスの重要性

古代の歴史家や神学者が慎重な前準備を経て文書を執筆したことを今日の聖書学者は認めている。個々の内容、語法、できごとの並び順、直接話法などはすべて、物語全体を貫く神学的な意味のある方針によって制御されている。

現代西洋の読者にとってこのような文学構造はなじみがなく、不便でわかりづらい。しかし古代の読者にとってはそうではない。古代の文書形式として一般的だった文学技法の原則をひとたび習得してそれが便利だとわかれば、古代文学を見る新しい視点が開かれる。読者は、書き手の技法と意図との両方に適応しなければならない。

■キアスマスの定義

20世紀、特に最近20年ほどの間に、ある重要な文学形式が知られるようになった。これをキアスマスという。旧約と新約の構造分析によって、間違いなくすべて、あるいはほとんどすべての記者が聖書を書くときにはキアスマスを多用したことがわかっている。

キアスマスは、文体を決定する文学形式だと定義してもよいだろう。キアスマスは二つ以上の要素から成り、それらの要素ひとつひとつに対して逆の配列を持った対になる要素が存在する。一つの要素は一語であることもあり、句、文、段落、またはもっと大きな単位から成ることもある。キアスマスは直接法、倒置法、対句並行法などの形式を持った対称形をなす。キアスマスの特色は、中心概念を包むようにそれを補強するための陳述を展開する点にある。したがって常に中心、すなわち「交差点」が存在する。キアスマスの構造はギリシャ字母のキー(X)のような形をしている。

また、平行線よりもむしろ同心円をイメージする方がキアスマスを理解しやすい。中心点が存在するので、良く設計されたキアスマスは、記者が強調したい概念を浮き彫りにすることができる。聖書のさまざまな並行構造を識別し、その文学技巧の威力を正しく評価するためにキアスマスによる分析は便利であるばかりか、必須であるとさえいえる。

■キアスマスの重要性

しかし聖書学者の間では、キアスマスは見た目をよくするための単なる文学的な遊びとして見過ごされることがあまりにも多い。解釈の手がかりとしてこれらの構造に注意が払われることはほとんどなかった。実際、解釈のためにキアスマスを援用する神学研究はまれである。

分析にキアスマスを用いることは、文学の伝統的遺産を積極的に活用することなのだ。キアスマスによる分析は、読者に読んでもらいたいと記者が意図したとおりに読むための積極的かつ建設的な技術である。文法・構文分析だけだとヨセフ物語の全体論的解釈という点では正しい評価ができないのが普通である。聖書のほかの部分とのつながりを考えることができないからだ。

■ヨセフ物語におけるキアスマスの重要性

ヨセフ物語の中に、クライマックスに向かって一定数のキアスマス構造の要素が並んでいる。クライマックスを過ぎると今度は逆の順序で要素が配列され、問題の解決とストーリーの完成に向かう。本文には明らかな統一性がある。これはキアスマス構造のためばかりでなく、ヨセフ物語全体の有機的なつながりを持った一貫性のためでもある。

たとえば、ヨセフ物語は創世記46:8-27にあるイスラエルの部族リストによって中断される。この系図情報はヨセフ物語を二分割(創世記37:3-46:7と46:28-50:26)するための境界線である可能性が非常に高い。創世記46:8-27の系図(37:1では中断していたヤコブの子らの系図。ここではクライマックスとして描き切っている)はヨセフ物語全体の中心として機能する。ほとんどすべての註解者がヨセフ物語の中心を創世記45:1-15であるとしているが、それは中心ではない

ヨセフ物語を深く研究するとストーリーの対称性が浮かび上がってくるが、この対称性は反転のテーマによって生み出されるものだ。ヨセフが兄弟のうちで最も愛される者として「高い」境遇にいるところから物語は始まる。しかし、ヨセフは知恵と能力に恵まれているにもかかわらず、その境遇は徐々に沈んでいく。彼が底まで沈んだときに神のみわざはヨセフの境遇を反転させ始め、ついに彼を栄光の高みへと導く。

このような反転はいくつか見られるが、テーマそのものを反転させるようなキアスマスは、描く筆のタッチも太い。この種の構造はさらに大きな構造に組み込まれて機能することに注意したい。たとえば創世記46:8-27の系図によって前半と後半とに分割されるヨセフ物語全体の構造がそれにあたる。

ヨセフに対する父の好意は、そで付きの長服によって表されているが、やがてヨセフはその特権を失う。これは罪のせいではなく、神の啓示を率直に言い表した(創世記37:1-11)ことによるのだ。父がヨセフを兄弟たちのもとに行かせたとき彼はほとんど殺されたも同然の状態に置かれ、最終的には奴隷とされる(創世記37:12-36)。

ユダとタマルのストーリーは直接的にはヨセフとつながっていない。しかしヨセフを隊商に売ったときに比べてユダが人格的に成長したことがこのストーリーからうかがえる(創世記38:26)。その後ヨセフはポティファルの家でしもべの長となった。しかしポティファルの妻の情欲が最終的にヨセフを監獄に送り込む(創世記39)。今度は彼は監獄において名を上げ、パロの廷臣である献酌官長と調理官長の夢を解き明かす。しかしその功績は忘れられてしまう(創世記40)。ヨセフの境遇が最底辺にまで落ち込んだことが創世記40:23で語られる。すなわち「献酌官長はヨセフのことを思い出さず、彼のことを忘れてしまった」。

しかしこのどん底がストーリーの反転の始まりとなる。パロは夢を見る。その夢が監獄からヨセフを解き放つための神のみわざであることが読む者にはわかる(創世記41)。ヨセフ投獄の事件がここで反転する。次の大きな反転が現れるのは、神がききんを用いてヨセフの兄弟たちをエジプトに送られたときだ。彼らはヨセフの夢が預言したとおりヨセフを伏し拝む。ヨセフは彼らをだまして末の弟を連れてくるよう命じるが、これは彼らがヤコブをだまして末の弟が死んだと報告したことに対応している。彼らがベニヤミンをエジプトに連れてきたとき、ポティファルの妻がヨセフを陥れたように、ヨセフはベニヤミンを罠にはめる。ここにも反転のテーマがある。ヨセフは兄弟たちを投獄せず、逆に喜びをもって迎える。それはユダが最後にその人格を見せたとき(創世記44:33)であり、これはタマルのストーリーにおいてユダの成長が認められたこととつながっている。

ヨセフがエジプトに売られた日、ヨセフを出て行かせたヤコブであったが、今度はヤコブ自身がヨセフに会うためにエジプトに出て行く。このとき神の約束も与えられる。ヨセフの夢の預言(創世記37:10)に反して、ヤコブがヨセフを伏し拝んだことは書かれていない。そのかわり神は、ヨセフがヤコブの目を閉じるだろうと告げられた(創世記46:4)。表面的には対応のバランスが悪く見えるが、ストーリーの主要な筋は、巧妙かつ自在に、それでいて驚くべき緻密さをもって絡み合っている。これこそ読者が書き手に期待することであろう。

創世記の結末(創世記46:28-50:26)では、突然エジプトに現れた小さな集団が平和のうちに守られていたことが描かれる。彼らはエジプトの地で最も良い地(創世記47:11)を与えられた。また賓客としてすべての良いものを与えられた。創世記1-11の結末がいわゆるハッピーエンドでないのと同様に、ヨセフ物語の結末もすべてよしというわけではない。彼らは依然としてよそ者であり、自分の土地を持たない寄留者である。創世記15:13の預言は確かに重くのしかかっているのだ。問題の最終解決のためには、神による次の大きなみわざ、出エジプトを待たねばならない。
 
 
Copyright 2000-2001 KazuhikoKanno All rights Reserved.